2009-02-06

柳河監督のインタビューⅩ*


1/13に掲載した<監督のインタビューⅩ>の邦訳がありました~分かりやすいので邦訳を改めて掲載いたします~


◆ユ・ハ監督「チョ・インソンの全裸シーン撮影の後、一睡もできず」◆

この監督の冬は寒くなさそうだ。元々熱い映画なのに、観客の反応まで熱いからだ。『霜花店』の柳河(ユ・ハ、46)監督だ。高麗(コリョ、918~1392)時代末期を背景にした「激情メロー」こと『霜花店』は公開から2週間後に200万人を突破し、善戦中だ。考えてみればデビュー作『風吹く日には狎鴎亭洞(アプグジョンドン)へ行くべき』のほかには、「安打」しつづけてきた「興行監督」だ。

#チョ・インソンの情熱なければ不可能だった映画

--好調な滑り出しだが。

「まだスタートしたばかりだ。興行はマラソンなのでは。小さなサイズで内密な宮中の秘事を撮ろうとしたが、時代劇だから規模が大きくなってしまった。ガソリンの費用だけでも2億ウォン(約1300万円)がかかったほどだ。制作費(純制作費80億ウォン)が増えたことに負担感を感じている」。

--恋敵だった男女が致命的な愛に落ちるあらすじがしっかりとしている。シナリオはどのようにして構想したのか。

「『結婚は狂気の沙汰』のときには惜しい点が多かった。もう少し大胆で、肌のにおいのする恋愛ものを撮りたかった。『霜花店』は精神的な愛の結果物としてのセックスではなく、肉体的な愛から精神的な愛が始まる物語だ。エロチシズムというものが偽の死の世界であり、生と死、生と暴力がこんがらがる肉体性の祭典だと思う」。

--度を強めたセックスシーンが多い。原則は何だったのか。

「大島渚監督の『愛のコリーダ』のようにさらに進めなかったのが残念なだけだ。『霜花店』はスローテンポの音楽が流れる、きれいでかつファンタスティックなセックスの映画ではない。ホンリムと王妃がセックスをするところが発覚する場面でも、発覚するシーンを抱擁にするかセックスにするかをめぐり、2~3時間にわたる激論を繰り広げた。私は最大限卑陋(ひろう)に進めようとした。抱擁するところが発覚する場合、観客はホンリムがかわいそうだと思って、感情移入する。包装なしに、醜いところが発覚する方が、人生の具体性を見せてくれると判断した」。

--「全てのものをお見せした」というチョ・インソンの挑戦に驚いた。

「俳優ら、特にホンリム役を演じたチョ・インソンの情熱と犠牲がなかったら不可能だった映画だ。全裸のセックスシーンを撮影した後は一睡もできなかった。CMスターでもある彼をこのように肉欲的に完全に脱がせてもいいのだろうか、監督としての欲張りとファンの反発の間で悩んだ。商業的な欲と作家の欲が衝突する場合も多かった。観客が見づらいと感じる王とホンリムのディープキスのシーンだ」。

#マッチョへの軽蔑と魅惑が映画の動力

--同性愛の素材にどんな意味があるのか。

「恋愛の劇的な装置と考えていただけだったが、観客の反応を見て、私がひどい同性愛の映画を作ったんだなと感じている。事実上『霜花店』は作られた人間の形についての物語だ。作られた性的アイデンティティー(同性愛者)として生きてきたホンリムが、自身のアイデンティティーに気付く瞬間、すべてを失ってしまう。私の一貫した関心事であるマッチョイズムにもつながっている。私はマッチョ的に育てられたが、同時にそれを軽蔑(けいべつ)することもある。マッチョへの軽蔑と魅惑が私の映画的な動力なのだ。ホンリムを通じては雄性を、王を通じてはマッチョイズムと男根性の向こう岸を、それぞれ語ろうとした。同性愛の基本的な悲劇性というのは、子どもを産めない不毛性のユートピアを夢見ることなのでは」。

--シナリオを書く際、セリフが自然なのかを見るため、直接セリフを演じてみながら書き、俳優の私生活も統制していたそうだが。

「俳優がキャラクターから抜け出せないよう、随時何をしているのかをチェックした。俳優は褒め言葉を食べて生きていく生きものだが、私は称賛に寛大でない方だ。その代わり、演技が不自然な場合、俳優にもっと求めるよりは自分が書いた台本を疑う。9割はセリフやト書きが間違っている」。

--今後の計画は。

「監督は映画を撮影するときを除いては、ネタ探しに没入する。私は主に空想にふける。監督は自分の映画を通じて自分の無意識を見出すが、これまで私の映画はいずれも主人公が死亡、痴情(ちじょう)、破綻(はたん)、悲劇などに至り、死のイメージが強すぎた。映画を撮る間は自らも非常にダウンする。映画を通して自分がどれだけニヒリストなのかに気付くというか。次回作は明るく愉快な映画にしようと思っている」

[中央日報 2009.01.12 10:43]



No comments: