2011-03-26

インソン君のインタビュー記事=中央日報


中央日報によるインソン君のインタビュー記事です。


[j Special] チョ・インソン 「列外ですか? 恥ずかしくてできません」

‘末年兵長’チョ・インソンは真剣だった。 『孟子』 を話題に取り出すと、人生観をすらすら解いた。 意外だった。 軍生活で悟った処世術といった。 消費ではなく準備の時間。美男俳優チョ・インソンの内務班生活はそうだった。

去る 7日京畿道(キョンギド)鳥山(オサン)の空軍軍楽隊で彼に会った。 ちょうどヒョンビンの海兵隊入隊で騒がしい日だった。 チョ・インソンは二ヶ月後に除隊だ。 一人のスターが軍に入ったが、別のスターが世の中の外に出てくるのだ。 ‘軍隊に行って来て人と成った’ という話。 持ち主が別にあった。



‘列外’ のない軍生活

◇軍生活で ‘人間チョ・インソン’ はどのように変ったか。

「そのような質問をたくさん受ける。 しかし、実際それは未来指向的質問だ。 社会に戻って仕事をしたり危機状況が近づいた時に軍で何を学んだのかを知ることができるのではないか。 今すぐああだこうだ言うのは私の省察力を遙かに上回る生意気な話だ。」

◇謙虚なのか、言葉を憚るのか。

「葉が変わったことで、山が変わったことではない、という諺がある。 その通りのようだ。 私も軍生活より社会生活をより多くした。 軍が私を ‘急に’ 変えたと話すのは・・・. これから入隊する方たちにも負担感を与えることになる。 軍がどれほど人を大変にしたか・・・と、ハハ。」

◇空軍に行った動機は何か。 最近、海兵隊が流行だ。

「最初は当然陸軍に行かなくてはと考えた。 父が空軍兵士で務めて下士官で除隊した。 ヒントをたくさん下された。 母も ‘空軍の制服がどれほど素敵なことか’ と言った。 その一言が実際私を動かした。 もちろん外出・外泊も多いと聞いているし。 父は一週間に一回ずつ出てくるように言ったが、いざ来てみるとそのようにはならなかった、ハハ。」

◇不規則で窮屈な芸能人生活をして適応するのが難しかっただろう。

「軍楽隊で多くの楽器と共に暮らす。 演奏より行事と公演がある時に司会を主にした。 軍規は強かった。 舞台に立たなければならなくて、その時綱紀で評価を受ける。 本来芸能人という職業は道徳的に非常に ‘組み立てられた’ 定規を持って生きなければならない。 それが身についていて大丈夫だった。」

◇いわゆる ‘パッダ’ にあってみた経験は。

「苛酷行為や殴打はない。 最近は憲兵隊が分期ごとに検査して、匿名で申告を受ける。 私だけでなく他の古参兵士たちも合理的に解決しようと努力をたくさんする。」

◇記憶に残るエピソードは。

「お手洗いの清掃だ。 新兵の教育を受ける時、私たちの期生は 3人だった。 年齢が上ならば、わざわざ大変なトイレ掃除をさせる。 私もそれからした。 次は ‘室’ 清掃として洗濯室・シャワー室・洗面室に ‘昇格’ する。 これで清掃では極限に達する。 除隊すれば豪勢な建物のトイレ入って ‘掃除はこのようにするのではないのに’ と一幅見せることができるようだ。」

◇芸能人たちは軍生活も豪華なのではないのかという見解があるが。

「列外がありえない所だ。 私自身が恥ずかしくて、そのようにはできない。 軍にもそれぞれ領域がある。 単純に下っ端というのではない。 説得をすることでこそ一緒に暮らせる。 あなたはそれをしないのにどうして私にはさせるの、とこんなだ。 動機付けにならなければことをしないことだ。 この頃の子たちはそんな子たちなのだ。 私は入隊前 ‘失くした一般性’ を取り戻してくると言った。 だが、いくら一般人のように行動しても認識はそうではない時がある。 別に方法がない。 私が人生で負わなければならない荷物、勝ち抜かなければならない宿命のようなものだ。」

◇翳って白いが軍人の肌のようでない。

「ここでは肌管理を受けてこのようなのを想像できない。 推測したところ規則的に寝るのが助けとなるようだ。 外にいる時はそのようにできなかった。 撮影して起きる時間が普通午後 1時であった。」

◇軍楽隊長が耳打ちした。 新兵たちが兄のように従ったと。

「国防広報院にも芸能兵がいる。 そのような生活より一般の友だちと交わりたかった。 そうであることに自信がある。 互いに混ざろうと努力した。 辛ければ面倒をみてくれそうだった。」

◇軍生活が体質であるようだ。 長期服務しても似合うような。

「ウーン、それはちょっと悩んでみて。 いや、次の人生に一度・・・ハハ。」

◇今日ヒョンビン氏が海兵隊に入った。 軍の先輩として助言するならば。

「明哲保身したら良いだろう。『 詩経』 に出てくる一節だが、適切な分別力で自身をよく保全するという意味だ。」

◇昨年秋の延坪島(ヨンピョンド)事態の時の心情はどうだったか。

「熱くなった、本当に熱くなった。 私たちも基地防御訓練で化学兵器の訓練をするのだが、実際状況が広がると・・・. 心には誰でも ‘ マッチョ気’ があると言うではないですか。 延坪島をそのようにさせた者を許したくなかった。 当時空に F-15Kが飛んでいたが、何百km外から目標物を攻撃して当てることができる。 そのような威力を私が知っている人たちにやたらと、みな話してあげたい衝動が起こった。」


『孟子』 『論語』 『大学』 『中庸』

◇高齢な兵長だ。 今年 ‘三十’ になったが。

「考えることをたくさんしようとする。 それで隙間の時間が与えられればときどき本を読む。 最近読んでいるのは 『森の生活 ウォールデン』 (ヘンリー・デイヴィッド・ソロー)だ。 仏門僧侶が推薦したといって選んだ。 実際軍隊で忘れることができない思い出がある。 まさに 『四書三経』 だ。 ある日突然 『孟子』 が頭の中に浮かんだ。 変に。 一度読んでみよう、そうした。 とてもすがすがしかった。 それでは、次は? 『論語』に挑戦した。 ついでに『大学』と『中庸』まで読んだ。 実際はこのように読んではいけなくて、大学を先に読んで論語、次に孟子を読むべきだというのに、ハハ。」

◇軍で本を読む時間が多いか。

「もちろん業務を全部終えて見ることだ。 とにかく 『四書三経』 を読んで他の本へ移った。 ニーチェを経てアルベール・カミュもちょっと見て。」

◇チョ・インソンと古典とは見慣れない組合せだが。

「本来私は頭の中に考えが多い。 ところでそれを具体化させて言葉にすることが容易でなかった。 ところで 『孟子』 を読む瞬間頭が整理にされたというべきか。とにかくそのような快感を味わった。 私が言いたいのはこうしたことだったが、このように生きたかったが・・・. 未来にいかように判断して生きていくべきか、こういうことをあらかじめ提示するような感じを受けた。」

◇ ‘民間人の時期’ にも読書をたくさんしたか。

「告白すれば昔は台本しか・・・ハハ。 軍に来て本を読むことになった動機がある。 入隊頃にノーベル文学賞を獲った日本の作家大江健三郎の 『回復する人間』 (『恢復する家族』のこと?)を見たからだ。 なぜか分からないすがすがしさを感じた。」

◇本で具体的に習った教訓は何か。

「例えば 『孟子』 で最も心に刻むに値する一節は ‘反求諸己’ であった。 問題があれば人を恨むのではなく、自分が分からないのを咎めなければならないということだ。 人々は誰かにしきりに理由をつける。 世の中が私を分かってくれない、または、認定しない、とこのように不平も多くて・・・私は常に等数をつけて問い詰めて、最も ‘下手’ という考えで仕事をしてきた。 なぜなら世の中には ‘高手’ たちがとても多いためだ。」




人を輝かせることはさらに難しい。

◇あなたは最高の花美男優ではないか。

「私は顔のためにかえって演技に対して渇望が多い俳優だ。 顔でだけ評価されるのを克服しようと不断に努力した。 どのみち ‘ドキュメンタリー的俳優’ になることができないことをよく分かっている。 しかし、それでより一層顔で認定を受けまいと、きつい作品をたくさんしてきた。 さらに強く、さらに熾烈に。」

◇容貌を否定するのか。

「違う。 そのように生きてきたということだ。 今は考えが少し変わった。 両親がくれた顔も十分に生かして演技しなければならない、そのような考えになった。 そのような長所を回避せず俳優として大きなこともあると思う。」

◇忠武路(チュンムロ)が ‘除隊を待つ第一順位俳優’ に何度も挙げた。 そのような期待感がなぜ出てくると考えるか。

「俳優チョ・インソンを求めるのは何か ‘可能性’ を期待するためであるようだ。 そのような機会があるというのは幸運だと考える。」

◇誰しも新しい世の中を恐れる。 俳優として‘空白期’ を持ったが。

 「不安だ。 それがなければ話にならなくて。 血沸く年齢にどれほど演技に対する渇望があったことか。」

◇どんな ‘演技美学’ を持っているか。

「メソッド演技 (method acting) を指向する。 劇中人物と同一視される極写実主義的演技だ。 言わば計算されない演技だ。 それで起伏が甚だしいかもしれない。 役柄を理解できなければ演技にならない。」

◇何の意味なのか。

「私がきまり悪くて ‘恥ずかしく’ すれば演技をできない。 例えば台本を見た時に面はゆい部分があっても、大きい脈絡で理解できなければならない。 でなければ、作家や監督に ‘これをどのように表現するという話か’ と問いつめて質す。 ドラマ 《バリでの出来事》 もそれが納得できて演技ができた。 もちろん理解ができなくとも適当に演技することはできる。 しかし、観客にそういうのを見せることではないのではないか。」

◇演技の中で気に入らない部分は。

「声に対するコンプレックスがある。 さらに低音であってこそいいのだけれど。 ところでこれは努力しても限界があるのだから。」

◇演技を通して表わしたり得る価値は何か。

「例えばハ・ジウォンさんとドラマを撮る時を話してみよう。 とても安定感があって相手をよく支えてくれる、サポート姉は。 実はそれが難しい。 一人で輝くのは意味がない。 自分がパワーを吹きだすにも、それを誇示することよりは相手を引き上げる演技者が立派だ。 結果的に自身もより一層輝くことになって。 人生もそうではないだろうか。 それで年を取れば助演に移りたい。」

◇三十代だが結婚はいつするか。

「ハハ、自覚して自給自足するべきなのに・・・. 私が性格的に問題があるかもしれないが。 芸能人で女性に会えばとても負担になる。 本来の姿を見せるのが大変な。 それでも私の本来の姿がろくでなしで生きるということでもないが、ハハ。”

◇5月初めに除隊したら何からするのか。

「旅行だ。 ヨーロッパの方へ必ずまた行きたい。 俳優はたくさん見なければならない。 それでこそ身振りに、演技にくっ付いて出る。」

◇若者たちにしたい話は。

「俳優はアンサンブルのように仕事をする。 スタッフとマネジャーなど多ければ150人が共にする。 融和が必要だ。 18才の時からそれを習った。 軍生活も同じだ。 理解してあげて、説得して、付いてくるようにすれば良い。 そこに責任意識がより増せば錦上に花を添える(よいものに更によいものを添える)のだ。 兄のような感じ、彼を通した融和、それがリーダーシップでないか。 軍だけで通じる話ではないようだ。 逆説的に私が軍で習ったのがそれだ。」



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「精神的支柱であったテコンドー師匠…その方のように線が太く生きたいです」


‘千戸洞(チョノドン)の田舎者’ がチョ・インソンのニックネームだった。 そこで育った。 彼は 「高校の時は反抗心が多かった」 とした。 外国為替危機の時父が名誉退職して、家が困難になった。 お金を融通するために家主なのに半地下に下りて行って暮らした時期だった。

◇苦労が多かっただろう。

「その時は皆苦労していたのではないか。 とにかく誰かが私をしきりに無視するようだし、それで不満が多かった青春だったようだ。 家は5年前松坡区(ソンパグ)に引越しした。」

◇町内の友人たちとまだしばしば会うのに。

「何もなかった時に会った奴らが6~7人いる。 今でも顔をしばしば見る。 私が酒を飲んで計算先にして逃げるクセがある。」

オ、それ良い習慣だ、ずっと維持を….

「ハハハ。 前は爆弾酒40杯まで飲んだが、この頃は酒をたくさん飲めない。」

楽しく町内話をした彼が突然目頭を赤くした。 さっと水滴のようなものが見えた。 長庚星(チャンギョンソン)館長であるテコンドー師匠のことを言った時であった。

◇運動を激しくしたか。

「大学に行こうと千戸洞でテコンドーを習った。 反抗期であった時期、私を励ましてくれた館長様がこの前病気で亡くなった。 授業料も受け取らないで、精神的な頼りになった方だった。 休暇の時見舞いに行ってきたが、そのようにはやく…。」

◇人生のメンター(良き指導者)だったようだ。

「小才を働かせて生きはしないという考えをたくさんする。 実際に今までそのように生きてきたし。 偶然の幸運を望まないという話だ。 まさに館長様がそのように生きた方だった。 これが合っていてあれが違っていてといちいち話さなくても、行動で見せてくださった先生だ。 その方は逝かれたが私もそのように太く、太く生きたい。」

文=キム・ジュンスル、イ・セヨン記者 / 写真=パク・ジョングン記者

キム・ジュンスル記者のブログhttp://blog.joinsmsn.com/jsool/ →☆

[中央日報 2011-03-12 17:35]
http://news.nate.com/view/20110312n00642






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