◆<쌍화점>柳河監督,“人間の感情が大引けまで行くメールだな” ◆
遂にふたを開いた.今年の年末最高の話題作で期待を集めて来た映画<霜花店>が封切り(12月30日)を控えて記者試写会を持った.破格からメールにまでこの映画を取り囲んだ知りたい事を柳河監督に入った.
記者試写会が終わって編集をまたしたと聞いた.
おおよそ10分位減らした.中・後半部の話に重畳される説明があるようで,映画で敢えて親切に説明しなくても良い部分を飛躍させた.ドラマを大きく害するよりは話にスピードを与えたのだ.実は以前からためらったが,登場人物たちを均衡あるように按配して見るから長く間側面もあった.一人で悩みをしたが,減らしたほうがましそうだという判断が入った.
初めて史劇を演出したが,作業を終えた所感がどうなのか?
史劇というジャンルで初めてシナリオ使って見たが,現代劇よりはいろいろに悩みがたくさんなったようだ.撮影期間は<卑劣な街>時に似ていた.しかし今度はほとんど毎日毎日撮って撮影回数はもっと多かった.一応史劇と言うのはジャンルが演出者だけ用意すると終わるのではなかったよ.周辺状況が揃っていなければならないのに,そういう状況が難関だった.言わば, 空間を少しだけ振っても撮ることができないのだ.美術や小品みたいなものなどがセッティングされた限定された空間でばかり撮影をすると真書,そんな部分が惜しいことで残る.動線も変えて,現場の空間も変えながら撮影して見たかったがそのようにできなかった.
予想はしたが,実際に映画を見たら強いという印象を受けた.周辺でもそんな反応が多かったが.
シナリオを書きながらはじめから論難があると思った.どうせこの映画が観客たちにどんな胸を打つとかするそんな映画ではないからある脈絡では不便な部分もあるんだ.さまざまな論難が生ずるようだという考えはする.
<霜花店>企画はどんなに始まったか?
<卑劣な街>が終わって,次期作アイテムを捜してから<高麗謝絶です>という本を見たが,恭愍王という人物の持った記録がとてもドラマチックだという印象を受けた.朝鮮の私邸(私偵?)たちが朝鮮という国家の歴史性を正当化するために恭愍王に関する記録を捏造したという観点もあるのに,完璧なトゥルーストーリーとすることはできないが,才知が鋭くさとかった君主が露国公州(=王妃のこと)の死によってで精神的に破壊されて行く過程がドラマチックだった.ここに変奏をして創作をすればゼミイッゲッグナという気がした.
史料でモチーフを得たと言ったが,恭愍王のどんな部分が映画的に解くのに魅力的だったか?
実は恭愍王はミステリーした人物なのに,実際に四書に見れば彼が同性愛者に描写されている.元国を排斥しながら独立を試みた改革君主だったが,宮女と大臣を強制で合宮させた後偵察する擾廃性を持った人物だった.また琴もよく扱って,絵もよく描く芸術家的気質も多かったし,講壇もあった.人間が持っている多様な感情が,どうして王という特定の人物に内在していただろうかと言う点が創作に対する欲求を触発させたのだ.
映画には恭愍王だと言及されない.もし歴史歪曲論難に対する視線が負担だったか?
恭愍王からモチーフは取ったが,恭愍王自体が登場するようになれば歴史歪曲論難があるようだは気がした.<霜花店>は実際を基盤に完全に再構成したことだ.もっと正確に言えば,元国支配を受けた高麗末期という時代背景を材料にしてストーリーを構築したのだ.
◆もつれた感情が懐妊した悲劇
<霜花店>はチゾンググックを扱ったメールだな.<卑劣な街>が終わってスリラーを次期作で念頭に置いたと聞いたが,メローを選択した理由が知りたい.
感情的もつれることのため破局を迎えるという側面で見ればメールへの原型だと思うことができるのに,時代的激変期に崩壊されて行く王朝で開かれるボリューム感あるメローをして見たかった.そこに政治的陰謀が加味された,ふんだんなストーリーを思った.この映画はホングリムの観点で見ればアイデンティティを尋ねる青春の話であることもできて,王の場合には失敗した君主の話を取り上げた史劇であるかも知れない.映画を二度見れば感じることができるでしょう.(笑い)(←はいはい、その通り、回を重ねるごとにホンリムが浮かび上がってまいりました・ヤスミン)
元はと言えば王と王后,ホングリム三人の人ははじめから結ばれることができない関係だ.これが悲劇の段初ではないか?
(王は同性愛者で,王后は祖国である元国の強要によって高麗王と結婚した人物であり,男であるホングリムは幼い頃から王とともに暮らしたわけに自分の性アイデンティティを悟ることができない.)
同性愛と言うことは本質的に生産性がない不毛の愛だ.同性愛をするというの自体が悲劇性を内包しているのだ.すべてのことを殆ど過ぎ去るは王だったが,愛を選んだから逆説的に不毛性を持ったユートピアを夢見たのだ.ちょっと哲学的ではあるが<霜花店>は男根注意のパラダイムを越す愛,そこで始まる悲劇性を扱っている映画でもある.
破局に至る映画の結末が悲劇を集約的に見せてくれる.その過程で特別に強調した部分があるか?
エロス的な愛だ.王によってホングリムは強制で肉体が分かるようになったが,身と身の間の校監(交歓?)を成した後,その校監が心に転移されながら自分のアイデンティティを捜すようになる.王の立場ではそれが一つの反転になることで,また悲劇を懐任する過程で発展するのだ.結局肉体的な愛自体が心に転移される過程が悲劇性の推進力になるのだ.
新材人武術監督に“かけるに愛憎を盛りなさい”と注文した.どんな意味か?
<卑劣な街>もそうだったが,アクション自らの快感よりはアクションに盛られた感情が重要だった.王の政治的ビジネス(王后とホングリムの代理合宮で後継問題を圧迫する元国から自主を守ろうとする試み)で悲劇が始まったが,それが意図した方向に仕事が進行されないで妬みを感じて,またホングリムも王を愛したと思ったが,王后に身と心を与えながらジレンマを経験するようになる.そのような過程でお互いに対する怒りと愛憎が極まって,そんな感情をかけるに盛って見せてくれたかった.一種の感情のアクション化であることだ.
◆エロチシズムに対する事由
ベッドシーンが話題だ.同性愛コード,破格的な露出が期待を集めているのに,シナリオを見た俳優たちの初反応はどうだったか?
チョ・インソンさんみたいな場合前作<卑劣な街>に対するお互いの信頼があった.露出が破格的に必要だと言ったら一言トールをつけなくて,シナリオ見てから“必要ですね”位にだけ返事した.スターという自分の位置に対して立てなくて,映画にオールイン真書何らの土もつけないで‘セン’場面を撮影したのがむしろもっと負担だった.(笑い) しかし映画自体がエロス的な主題を扱っているからその部分に対して譲歩をすることはできなかった.同じく宋至孝さんも女俳優が服を脱ぎが易しくないのに,それ持って現場で調子が悪がらなかった.
チョ・インソンとチュ・ジンモ二人の俳優の同性愛場面も破格的だ.特にこの場面でチュ・ジンモがもっと積極的だが.
個人的に‘その場面が必要だか’という悩みをたくさんした.とにかく男間の愛を表現しようとすれば二人が愛する関係人のを物質化しなければならなかったから結局撮影をした.ところでチュ・ジンモ チョ・インソンみたいな人が王やホングリムで見えなくて俳優そのもので見えたらどうするが心配になった.最小限ぶっ壊さ巻かなくちゃいけないと思った.(笑い) この場面で王がそのように激しく身を交ぜたことは待って,やきもち焼いて,また忍耐しながら愛憎が生じたからだ.逃したくないそんな心情言葉だ.一番てこずったのは,自分が理性碍子にも後輩であるチョ・インソンに感情移入をしなければならないのに,それが易しくなかったんだ.それでホングリムそのもので見るの以外に,演技しながらお前が本当に好きだった女を想像しながら演技をしなさいと注文した.
話が新しくはないという指摘もある.<霜花店>で何を話したかったか?
お決まりで古臭いという指摘もあるが,三角関係でも少しだけ変形を与えれば,もうちょっと面白くないかと思う気がした.少数のアイデンティティを持った人の話を通じて普遍性を話すと言うのが魅力的だった.少数者の愛が普遍者の愛で拡がることができたらそれも面白くないか?‘男どうし愛すればどんな感情だろう’から,‘人間が人間を愛するのにあってどんな偏見が存在するか?’という質問を数えきれなく投げた.(Michelle)フーコーがそうだったように‘外からの事由’,私たちが住んでいる現実ではなく過去の一時代を通じて私たちの感情を反芻して見るきっかけになる作品を作りたかった.
俳優たちの露出は興行を考慮した意図された演出か?
初めには‘今まで韓国になかった破格的な映画を撮って見よう’という意図で出発した.しかしこの映画はエロチシズムを売る企画映画ではない.身で会って結局心で発展する愛話なのに,どんなに見れば<結婚は気ちがいざただ(情愛)>の拡張版で見られる.観客たちそれぞれは好き嫌いが明確に分けられるが(そうかもしれません・ヤスミン),エロチシズムに対する本質的な話をして見たかった. また極限で走り上げる,人間の感情が大引けまで行くメローを見せてくれるとした.
◆柳河監督の青春では(青春論)
チョ・インソンという俳優はこれからペルソナになったようだ.彼とは二番目作品をしたが,彼はどんな俳優か?
チョ・インソンというアイコン自体が青春そのものと思う.青春の真ん中で経験する震え,不安,漠然たる罪の思い,ジレンマ,孤独みたいな青春の微妙な感情をその人を通じて表現したい欲求があった.もう彼も軍隊を行って来れば三十歳が超えるのに,彼には 20台最後の作品として象徴がないが思う.
それならホングリムキャラクターにチョ・インソンのそんなイメージを投映したことか?
ホングリムという人物を通じて話したかった件,‘青春が人生において輝く時期と悟る瞬間,美しかったと認めるその瞬間,もう青春は過ぎ去った’という点だ.自分のアイデンティティを悟る瞬間もうアイデンティティを忘れてしまって破局を迎える,存在のアイロニーが全キャラクターに集約された人物に描きたかった.自分が誰なのか,何を捜そうと思うのかなど青春の時期に通例悩むそんな姿を盛った.
封切りがあまり残ってなかった.期待も大きくて,監督様や俳優たちにも意味が特別な作品なのに,くれぐれも興行を祈る.
この映画はガソリン値段だけ2億ウォンが入って行った.ハハ.今年のように難しい時期にこんなに大きい作品を撮ることができたことが幸運だったし,とにかく報答をしなければならないでしょうに,よくできたら良いだろう(笑い)
[知勇陣記者 2008-12-29]★☆
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