2009-01-16

柳河監督のインタビューⅩⅡ


ユ・ハ監督のロングインタビューです~

ネタバレ、大人の方向きの内容です~



◆セックスは狂った仕業だ

申妙株記者(以下省略) 示唆した後に編集でちょっと減らしたと言っていたがいくら抜いたか?
柳河(以下省略) 十分ちょっと過ぎるようだ.モニタリング時事をてんからできなかった.後半作業時間がとても迫って急だった.記者時事日付は決められていて.封切り日程も変わったし.

封切り日付が12月30日になったことはチョ・インソンさん軍入隊日付のためだと言った.
それも状況のため.... いくら時間がなくても記者時事を破ることはできないから.今も編集をやっと終わらせて来る途中だ.12月30日にプリントが出ることもぎりぎりに合わせるようだった.

具体的に何を抜いたか?
周辺で絶対にセックス場面は触れてはいけないと言っていたよ.(笑い)

朴殷盛(以下文末に記載) 当たる.当たる.
全体的にスピードをちょっと与えた.中盤部と後半部で説明する場面も抜いたし重要な場面ではぴったり二つの三つのカットだけ抜いた.

サングファゾムは愛話ではないか.スピードも重要だが感情がキョキョイ積もる過程も必要だったら必要だが.
このごろ観客たちは特別なスペクタクルがない状況で感情場面だけではジルヘすることができると言うのが衆論だった.それでちょっと妥協をした.

実は映画の手始めも見どころがある場面ではない.とても平凡なドラマ場面で始まる.このごろ映画の言葉傑気方式ではない.
彼なの真実...霜花店は正統メロドラマだ.だから手始めは当然ドラマだろう.ところで霜花店が人々には宮廷の陰謀と裏切りが点綴されたスペクタクル大河史劇のようにポジショニングがなっていていたよ.私は実はとてもコンパクトなメロドラマを作りたくて霜花店を始めたことなのに.そのメールでが大引けで走り上げる.それで霜花店に対する反応が取り取りだ.男記者方々はアクションが少ないとそうしていたよ.メロドラマでアクションを見せてくれるのが何があるか.それにベッドシーンアクションが十分じゃないの.

だからベッドアクションは一つも手を出してはいけない.エロティックメロではベッド神さまで感情が重ねられる.サングファゾムでもセックスが対話だった.
ところでどうしても女性観客たちがそのベッドシーンにもっと沒入していたよ.それに同性愛まで出るから男たちはちょっと見る苦しがって.

それチュ・ジンモさんに映画を見ながら王を同情するようになったと言ったら,それは女なのでそうだと言っていたよ.男が見た感じと女の見た感じが確実に他のことみたいだ.でも (朴)
油実は我が国だけでなくすべての男性権力社会では男が浮気をして女が悲しむ構図だ.がゾングサエソでも恋人たちサイエソでも常にまったく同じだ.霜花店でも王と王妃と武士の関係だが結局同じことだ.王は家長と見えるが実は部である同じ役目だ.女だ.私は王に徹底的に女性性を付与した.女を抱くことができない身という設定も女性性を意味する.ゲイも女にシネリムができる.しかし王はインポテンツなので完全な女性性を持つようになる.

メロ映画とはしたがその中には強烈なエロチシズムがある.
結婚は及んだジッイダの延長線上だと見れば良い.エロスで始めて精神までも交感するようになるが結局破局で走り上げるようになるのだ.偶発的にセックスをするようになったが肉体的な交歓がますます積もって精神までも分けるようになる.

そうしようとするなら霜花店ではなくこの映画の塗った題目はセックスは気違いざただ.
(大きい笑いー柳・朴)

申あなた作品にはどんな一貫された人物が登場する.結婚は及んだジッイダやマルチュク青春通りも卑劣な街や霜花店では皆どんな制度にかまけた人物が登場する.個人は制度にやむを得ず順応する.順応して楽に暮したい心もある.ところで個人内面の隠された欲望が個人を制度外に導く.個人も仕方ない欲望がある.<霜花店>で王と王妃と無事は国家制度と君臣関係と夫婦関係で結ばれている.それを崩したのはセックスだ.あなたが関心ある人間の姿は似たり寄ったりそうだった.
乱少数者に関心がある.<結婚は気違い沙汰だ>でもお金儲ける事ができない時間講師が主人公だ.結婚という制度では少数者であるしかない.<マルチュク青春通り>ではアウトサイダー学生だったし<卑劣な街>では組織暴力団だった.いやだ.組織暴力団ちんぴらだった.<霜花店>では同性愛者であることなの.王だが少数のアイデンティティを持っている者だ.一国を支配する王までも少数者の悲劇から脱することができないというのが悲劇であることだ.

敢えて申し上げることなのに,あなたがいつかは必ずセックス映画を撮ると思った.セックスは破壊的な行為だ.関係をこなごなに壊す.それで映画的ではセックスは制度と形式を崩し潰す武器になる.文学的な地点もある.それであなたが<霜花店>を付けると言った時今年のが来たなあたかった.
(笑い) チョ・インソンと宋至孝とチュ・ジンモを通じて私は韓国映画で抜き出すことができなかったエロチシズムを描きたかった.それは見どころであることもあるがまだ朱子学が支配する韓国社会に対する話であることもできるから.うちの社会はいくら硬直されているか.年がもうちょっと多くても幼い奴がシシゴリンダで気持ち悪がる.ところで高麗時代を見るから本当に淫らだったんだ.その市どおり帰ってエロス的な祭りを通じて今社会の儒教的な硬直性を転覆させたかった.そんな本能が私には常にある.実は<結婚は狂った仕業だ>時振作にして見たかったが.

ところが?
終わりにカム・ウソンが屋上部屋で写真帖をめくって見る時写真でエロスの肉体性が現われたらと思った.しかし当時にはそのようにする事ができない.

なぜ?
ユその頃私はもうやっと再起何は監督だった.多くの女俳優たちにシナリオが行ったがみんな露出水準のため頭を横に振った.それなら後で撮って見よう.中にそのように思ったが,それが<霜花店>になった.

ところで今度はチョ・インソンとチュ・ジンモを完全にむいた.それに二人がセックスまでする.まったくもう.
商業映画では冒険であることができる.スターたちにも冒険であるだろう.しかしこれはまた他のうちの社会の硬直性を破壊するパフォーマンスになると思った.そして二人が懇ろである関係ということを考えれば最後の破局に行くためには必ず必要な場面だから.

もう一度出れば面白かったことみたいだが.難しくいたわしい回撮ったようだったよ.
二人のアクター皆よほど苦しがった.二人とも男だからそのまま理性を思いなさいと注文した.ところで顔は残ると言ったらそれがだめじゃないの.君が本当に好きな人の顔を想像しながらしてしたのに難しがった.それで結局濃い謀議要請に一月位撮影が持ち越された.

二人のセックスは一度出るだけだがかなり切迫する.舌が...魔で長芋とか....
(笑い) 代理パパをさせる直前に王がホングリムと同寝する場面だから.自分が決めて執行してからはあるがホングリムが自分を去ることもできるということを王は分かる.それで恐ろしくて恐ろしいのだ.恐怖心のためセックスがもっと切迫されるのだ.

良いセックス場面はその場面一つだけで人物の関係と感情がすべて現われるものなんだ.
元々その場面はちょっと長たらしかった.王妃を説得する場面もあってシネリムをするために準備する場面もあって.そうして二人の男がセックスをするのだったがすっきり抜いた.そのままセックス一つだけで説明した.

俳優たち演技には満足するようだ.
ジンモは霜花店のため脱毛まで生じたと言うほどだから.撮る過程も大変だったし.俳優たちも本気をつくした.それが私の目には本当に見える.

チョ・インソンさんを完全な俳優に作ったのはあなたの功ではないかと思う.
そうではなくチョ・インソンは元々学ぶ.

良い俳優は良い監督を通じて作られる.自分の中で良い演技を抜き出してくれる良い監督に会うことができなければ俳優は完全な俳優になることができない.チョ・インソンと言うのは学ぶあなたに会って完全な俳優になった.
お互いに取り交わすようだ.<卑劣な街>を撮る時初めにはグァン・サンウと撮ろうと思ってから外れたんじゃないの.その時インソングイを初めに見た.実は私はチョ・インソンに関心がなかった.<クラシック>(<ラブストーリー>)を見たが全然演技にならないと考えた.ところでうちのワイフがそのようにチョ・インソンが好きだ.光ファンだ.私が言葉だけさせてもちょうどあちらに行きなさいと言いながらインソングイに抜けている.ワイフがインソングイを積極お勧めして向い合うようになったの.

監督の奥様が特にお好きな<春の日>~ヤスミンも光ファンです~



ところで直接会ってみたチョ・インソンはどうだったか?
そのように美男であることは本当に分からなかった.いつか叉乗嶺と一緒にチョ・インソンに会う機会があったがほとんどギリシア神話に出るアドニスだったよ.見るやいなやこの人物を組織暴力団ちんぴらに置き換えればそのもので転覆になると思った.私はスターのイメージを後先にして置く悪趣味がある.グァン・サンウも完全チジルイで置き換えたから.

俳優たちに残酷に対する方ではないか.
俳優たちがキャラクターで去る事ができないする.ずっと気に入らないでずっと撮ることもできるという暗示を与える.俳優立場(入場)でこの場面が終わってその感情を払い落とさなければならないのに私がまた撮ることもできると言うからその感情を捨てることができなくて持っている.俳優にはつらい事だ.

俳優たちに禁酒令まで下ったと言っていたが.朴)
お酒を飲めば崩れるから.ナブトが全然お酒を口につけない.

このウィンドウ洞監督様も俳優をコーナーで駆る.俳優がその感情外に出る事ができないようにしきりに追い払う.とても小さな差までも細密につかみ出す.文を書く人々の共通点ではないかと思う.
当たる.このウィンドウ洞監督やナナ二つとも言語を扱う人々だ.他人は分からなくてもわれらは分かる.俳優がせりふを打った時とても小さな言語のニュアンス差を言葉だ.私たちには言語のイデアがある.そのイデアにとらわれすぎてそれを注文する.録音記事立場ではどんな差がないのにずっと注文すればみんな狂う.しかし後で映画を付けておいてみればそのニュアンス差のため変わる.

宋至孝さんの演技した王妃は考えよりは受動的に描かれなかったよ.(朴)
元々歴史でも露国公州はヒロインだった.敵方が群がって来ても一人で刀を抜いて対敵してそうだったそうだよ.恭愍王は後に隠れていて.

ところが,王妃がホングリムを愛するようになることは純然とセックスのためであることか.
王妃も人だから.王妃は性的に発達された人だ.ホングリムも経験者ではあるがそれは男たちどうしセックスだから.お互いに理性が分かる瞬間堰の水が切れるので.

三度試みる.その三つという数字が奇妙だった.初めにはためらって二つのボンチェン無理やりにして三番目は貪溺する.二番目セックスでチョ・インソンさんの表情も大変機械的で生半可だ.
二番目セックスでは王后がチォニョヨッゴでも.

博雅?本当?!
王后も初めには分からなかったがこれが何だと思うのだ.その時顔表情演出にかなり念を入れた.大好きな顔をしてもだめで妙な表情ではなければならなかったら.二人は初めには回なのをしようとセックスをしかし若い男女がお互いに会ってから勃起するのは仕方ないことなの.


二人の愛の始まる瞬間がセックスだったということなの?
実はいつかは分からない.メロドラマたちではよく初目に比べたりするが<霜花店>ではセックスであることもできて舞蹈会でお互いを哀れに眺める時であることもできる.

先ほどエロスの話をしたが,多くのメロドラマが愛の手始めを精神的な領域で捜したりする.初目に惚れることも同じ設定だろう.ところで<霜花店>では堂堂とセックスのため愛が始まる.エロス的な愛に目がくらむことだ.
そうだ.医学的に見てもセックスを快楽の行為で利用するのは人だけだと言うんじゃないの.その言葉意味を考えて見れば人間はさびしいというんだ.さびしさから脱出しようとセックスをするのだ.セックスは動物的な行為ながら精神的な行為であるかも知れない.

はかない質問みたいだがホングリムは王を愛しただろうか.
愛したの.ブレヒトがそうだった.鴎が並んで日ながら肩を並べる時がすぐ愛だと.あれほど刹那的ではかないのが愛であることだ.鴎がお互いに肩を並べるだけ愛したが,愛が変わったことだ.私たちがよく別れる事情をはなそうと思う話をするんじゃないの."私は君を一回も愛したことがない." 傷つけることだ.

それに霜花店での愛は初恋だ.チョ・インソンにも,宋至孝にも. (朴)
結局私は再び<霜花店>で青春を言ったかけたのも分からない.高麗時代に帰ったし王室の話をしたが結局私はホングリムという一青春が咲き始めて負ける瞬間の刹那を話したかけたのも分からない.淫乱と言うのは元々 ***花だ.刹那のように咲いてから日の光にとけてしまう.人生で青春という時間もそのように敢え無い.

それを悲しむ暇もなしに人生は過ぎ去ってしまう.その悲しみを心に収めておくのかないかと言う結局感受性を車だ.あなたは悲しみを感じる人であるようだ.
昔のはやり歌が好きだ.そのはやり歌たちは時代の真ん中を貫くが忽ち忘れてしまう.その時その感性たちがとてもはかないのだ.私も今は人生の夕暮れを準備しなければならない年がドエがである.人生の儚さを随時に感じる.それでずっとその話をするようになる.

さまわざわざ職業的なアイデンティティを区分する必要があるかは分からない.とにかくあなたはまだ詩人であることなの?
9年の間詩を使わないが私が映画作業をすることも結局本質は詩を書く行為みたいだ.ただ映画という詩にはドラマと散文がちょっとまじていてだけだろう.詩人は何でも易しく受け入れることができない人だ.世俗的なことを易しく受け入れる人もいるが詩人はそれを自分の中で苦しく受け入れる.私は今もそうしているし,そんな面で出たずっと詩を書いていると思う.

映画は詩に比べればずっと通俗的な媒体だ.
映画監督になってみるから大衆にもうちょっとチンゾルヘジョヤゲッダン考えをする.<マルチュク青春通り>のようにそのまま門を閉めることで映画が終わるとかしてはいけないことなの.しかし生自体が通俗だから.通俗的ではないのがどこにあるか.詩人でも監督でも結局そんなそらぞらしい通俗をそらぞらしくない不慣れな言語に変える人々だ.


実は<霜花店>は高麗末期の通俗歌謡ながら映画も大変や通俗的な話だ.王妃がホングリムを尋ねて来て一緒に去ろうと言う.お前さえいればどこでも行くことができると言う.そらぞらしい通俗性だ.ところであなたはその地点でホングリムが去ることができないようにする.そして結局去勢をさせる.急に通俗が不慣れになる瞬間だ.
シナリオをご覧になるから去勢する場面はないが?
(朴)
ではない.ある.実はこれはスポイラーだと話すのがちょっと困るのに,王はホングリムを性的に去勢させてもそれほど閉じこめても自分ののそばに置きたがるのだ.ところで最終編集本ではそれを抜いた.

いやなぜ?その場面が衝撃的ではあった.その後ではチョ・インソンさんの馬に乗る場面が出てきても痛いのに.なんかこのような考えばかりしたから.
実は去勢する場面は申相玉監督の来示(=宦官)でもう出た.元々来示をリメークして見ようかつもりもした.ところでドラマ王と出て出て折った.そして高麗ではない<霜花店>を取り上げたのよ.

去勢は結局男根と繋がれる問題なみたいだ.メロドラマはいつもこんな式で男根や家父長的秩序に当て付けて解釈が可能だが,とにかく<霜花店>でも三人の男女は事実上皆男根にとらわれすぎる人々だ.
<霜花店>のシナリオを書きながら窮極的ではエロスで始めて精神に行く関係を見せてくれようとした.ところで一番後へ行くと王とホングリムが広野で一緒に馬に乗る場面が出る.実はノルン草原は不毛の地帯だ.そこで二人の男が馬に乗るのは二人の関係が非生産的と言う意味だ.男同志の愛は生産的ではない.同時にその所は男根中心の自己方式やパラダイムから脱した所でもある.結局これらは生産性がなくて破局を迎えた愛の主人公たちではないか.男根がない世界でふたつが言葉を走らせるのはもしかしたら王の最後の希望だった.

ところでちょっと判断がつかない.チョ・インソンは男根から脱したら制度外に出る道が開かれていた.ところで逆説的にエロス的な愛に陷って男女関係という典型性を選択するようになる.宋至孝が典型的なメロドラマの主人公であることはそうだ打ってもチョ・インソンは逆に制度を選択したわけだ.
現実的な選択であるわけだ.同性愛は今社会で論議はなっていても成り立っているパラダイムではないんじゃないの.このごろは俳優たちに記者たちがあなた蟹だといううわさがあったが本当のゲイかという質問をするほどだから.

こんなに誤解することができる.あなたは文学をした詩人だ.だからイメージよりは話に集中するはずだ.それで美術がちょっと惜しい.実は文学をしたというのがあなた映画には常に荷札のように付きまとう修飾語ではないか.柳河の映画は映画的でイメージ的だよりは話に集中して文学的だ.そのように規定してしまう.
映画的と言うのがどんな引き上げたよく分からない.しかし私が映像中心のトレンドに撮りなさいとある監督とは思わない.1970年代に<スティング>を作ったジョージ・ロイ・ヒルのように話を連れて行くそんなラインにある監督だと思う.私は気ばたらきある映像や編集を追い求めるよりは話を一番よく伝達してくれることができる正直な演出と編集を好む.何の技巧もない.新しいイメージに対する欲望は大きくない.

<霜花店>では人物クローズアップがたくさん登場する.技巧がないと話したが,本当に正直にアクションとリアクションカットがつながる.
どうしてもシナリオ書く時からそれほど撮ると思ったから.私はドラマを伝達する監督として典型的な伝達方法を書いたわけだ.もしかしたらこれからは少しスタイルが変わることもできる.

今まで青春と少数者と制度にかまけた欲望に対する話をずっとして来た.今後とも同じな主題をずっと扱うつもりか.
映画をする度に人々が共感するに値する話をするというのが難しいという考えをする.毎度疑いながら映画を撮る.私の穿鑿するくせに人々が関心を気鬱呂準多面その話を続くようになる.

映画の敍事は監督人生の敍事から出るのを首都ある.あなたは社会的に抑圧された少数者の話をしなくてはこたえる事ができないと言った.
詩人のアイデンティティを常に隠すことができないようだ.詩人も少数者だ.私も周辺人々に読ませようと時を苦かった事もある.100人余りな読者のために詩を書く.私は詩人で住みながらマイノリティーを満喫して見た.私にももっと多い大衆と会いたい欲望がある.200万名,300万名の観客とずっと疏通したい.それなのに結局どの地点ではまた詩人のアイデンティティが登場して何か妥協ができないのだ.また私の中で少数者の話を汲んであげたりする.

文学をする方々は常に映画を羨む.映画の大衆性を羨むが実は映画はあまりにも多い人々が見て限界に逢着する場合もある.
大衆芸術中に自分をいくら隠すことができるのかが監督の才能であることができる.割の毎にそれを感じる.

大衆を相対しようとすれば創作者は寝るのを中で殺さなければならない.誰かにはそれは大変苦しい作業だ.あなたにもそうなのか.
分からない.変なのは私は詩人である時は私の現価商業的と言う話を聞いた.武侠紙に詩を付けて<風吹く日には鴨鴎亭洞に行くこと>のようにトレンディだったから.ところで映画の方に来るから私がより少なめに大衆的だとそうする.映像的ではないと言って.私がはじめから映画人だったらそんな評価をしないでしょう.それで一時私は詩人高映画監督というアイデンティティが衝突する地点で映画を作っているのではないか思った.

初めて詩を書くようになったことは片付けることができない熱意や欲望のせいや?
そうだったことみたいだ.高等学校通う時私はかなり問題児だった.暴力学生だったし.それなのにその時から日記帳に詩を書いた.それは二律背反だった.<マルチュク青春通り>で先生を尋ねて首を下げるチョン・ホジンさん(卑劣な街のファン会長ですね)の姿が私のお父さんの姿だったから.

当たる.上文高等学校出たんですか?
(笑い) その渦中に詩を書いたから.私が詩を書くということを友達に見付かればだめだった.しっかり隠しておいて私だけ見た.私の映画を見ればマッチョ性に対する矛盾が発見されるはずだ.私がそんな矛盾真ん中においてそうなはずだ.

当たる.男根を話す時問いたかった地点だ.<霜花店>ではそれがもうちょっと露骨的に現われたがあなた映画では男性性と女性性が共存する.マッチョ的なメロながらも女性的な視線がまじる.
<霜花店>は女性の時点でもうちょっと共感が行くメロなみたいだ.男監督が作ったが言葉だ.
マッチョ的な地点に対する矛盾的な感情は結局私の中にある矛盾のせいであるだろう.みんな背が高くて図体も散漫なのに詩を書く私を見ながら矛盾を感じる.暴力学生が密かに詩を書くということは男性性と女性性が衝突する地点だ.私は常に図体にふさわしく暮しなさいという話を聞きながら暮した.それで図体に当たらない当たって入って来ればそれは私には大変屈辱的で恥辱的な経験だった.それで私はもっと私をマッチョ的に包装したかも知れない.

ところで高等学生になるから力も生気も,その力を噴出したんだろう.しかし独りでは相変らず文を書くのだ.
すべての創作者は女性という言葉がある.創作は男性がするのではなく女性がするのだ.

ところでおもしろいのは高等学校の時の時を使いたいという欲望を押えつけることができなかったという点だ.<霜花店>でも押えつけることができない欲望が世の中に割れ目を出す.
やっぱりホングリムと似ている青春を送ったのではないかと思う.私の中の欲望を片付けることができなくて夜を過ごした.私に世運商店街がそんな欲望の固まりだったことがアニンがもと思う.キチゾックな欲望に捕らわれて陰画を見て性的な欲望のため勃起して通りを迷って.

ところであなたはそのように熱情的な青春が結局こなごなに碎けて消えることにひかれるようだ.<マルチュク青春通り>でもそうだったし<卑劣な街>でもそうだった.
若死詩人が一番美しいと言わないか.青春は青春で残った時一番美しいのだ.

死に魅かれないか.小説家金零下さんは年を取るようになるから死をずっと思うようになると言っていたよ.青春の美しさは死の美学とも繋がれるものと決まっている.<霜花店>の結末も死だ.
死に魅かれたとはできないが,死に慣れたりする.終値で育ったせいに幼いごろから死に慣れた.炎することも見たし.人間が死ぬということを幼い時から認識したようだ.人間は死を話しながらそれによってで死に対する恐怖を忘れるみたいだ.実はセックスは人間が死の恐怖を忘れようとする行為だ.エロ映画だけ見ても相手を殺そうとする行為がすなわちセックスではないか.相手の生命を強奪しようとする行為がセックスだ.相手をいじめる.<霜花店>でセックス場面を演出する時常にそれを念頭に置いた.これは相手に対する攻略あるいは強奪だと.

観客たちは...チョ・インソンさんの尻を見るようなのに?
(顔が赤くなる) (朴)
(笑い) チョ・インソンと言うアイコンは人々が尻に関心を持つしかない存在だ.チョ・インソンのようにアンチのない俳優は見られない.我家人だけでもドラマ<春の日>をどんなに熱心に見るのか.ところで私がそんなアイコンたちと作業をするほうが良かったりしながらも悪かったりしたことでようだ.<マルチュク青春通り>でもグァン・サンウが終わりに屋上で戦う場面をグァン・サンウのロマンで受け入れたから.それは暴力の化け物性を見せてくれようとする場面だったがグァン・サンウがとても格好よく出てしまったのだ.今度にもチョ・インソンの尻が私が言いたいセックスの破壊性より先に現われるの.

男が見るのに二人の男のセックス場面がそんなにひどくなくて幸いだ.
とてもひどく感じる人もいたよ.

一方に宋至孝さんとチョ・インソンさんのセックス場面は繰り返されるほど濃艷していたが.男たちの目で濃厚な感じだと言えるか.その時またマッチョ監督と言う考えもした.
みんな好きだか?

ちょっと勃起していたよ.家へ行って熱心にした.
(大きい笑い) (柳,朴)
このような時はありがたいとしなければならないでしょう?

文: 申妙株,朴殷盛記者
写真: 金再説

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