2009-01-13
柳河監督のインタビューⅦ
旅行中に積み残した記事を整理しております~
監督様の<CINE21>でのインタビュー、ようやく新年の記事に辿り着きましたが、とてもためになりました~
◆“話の最後まで行って見たかった”◆
初めて史劇お目見えした柳河監督インタビュー
-記者時事とVIP時事以後また編集をすると言うが.(=試写会)
=時事の時上映したバージョンが2時間23分のなのに,実は最初から減らさなければならないという考えはあった.ところでこの映画で見せてくれることができるのがどうしてもストーリーなので切らなければならないが巻かなければならないが悩みをしたんだ.後半部のすぎるほど説明的な部分を10分位切るつもりだが,それでは劇場でもハンフェがもっと出るから投資社と製作者も好きだろう.(笑い)
-最初には<マルチュク青春通り>と<卑劣な街>に引き続き‘暴力三部作’の三番目を作るという計画を明らかにしたが.
=三番目映画をマンドルリョだ見たら私があまりアクション方へかたよったのではないかと言って他のジャンルを扱いながら変化がほしかった.そして元々は40代家長である職業組織暴力団の話を作ろうとしたが<優雅な世界>が出てブレーキがかかった.私がしようとしていたこととまったく同じだったよ.
-<霜花店>はどんなに始まったか.
=<情愛>を撮った後メロー映画を一本加えたかった.それも激情的でエロティックなメロー映画言葉だ.そうするうちに史劇を思った.何故ならば私の考えに現代を背景にしたメールでは寿命をつくしたようだった.メロドラマなら身分,制度,倫理などの障害物がはっきりとなければならないのに今はそうなことがあまりあるか.それで史劇を思ったが,偶然に<高麗謝絶です>を見ている途中恭愍王話に会った.高麗を崩して新しい王朝を作った朝鮮によってたくさん歪曲されたりしたが恭愍王は実際にトランスジェンダーだった.旅装もして,他人の性関係をうかがったりした.そして貴族自制たちを立ててザゼウィという親衛部隊を作ったが,彼らと藍色を楽しんだりした.結局恭愍王は洪輪という人物によって滅多切りにされて死ぬ.そこでアイディアが浮び上がった.二人が愛する人だったらどうだったろうかと言って.性アイデンティティという障害物を設定したこともそのためだ.
-そうしてみれば映画が実際歴史的事実を非常に多く反映するという感じだ.
=情事によれば露国公州(=王妃)が死んだ後恭愍王は聡気を失ってザゼウィ所属である洪輪,ハンアンこんな可愛らしい男子供達と藍色を楽しんだ.後継がないから彼らと後宮たちを関係結ぶようにしたりした.そうするうちにイックビという後宮が姙娠をした.その事実を催晩生という来示(宦官のこと?ヤスミン)が王に知らせるから恭愍王は彼らをすべておかゆだと指示した.恭愍王が元国に独立的な姿勢を取ったし絵と琴演奏など芸術に上手かったという点,露国公州が講壇ある人物だったという事実,王位を狙う甥がいたという点,院に負った大臣たちがあったし恭愍王が彼らを一挙に皆殺しにしたことも皆歴史に記録された事実だ.そのようにあちこちに散らばった歴史的事実を再構成したし,私がメロドラマだけ作って肉を加えた.
-ところで映画ではどうして恭愍王だと指摘しなかったか.
=人々がとても歴史的事実にかまけて映画を見ることもできるようだった.また下手すると歴史歪曲という批判も受けるかも知れないという考えだった.
-題目を <霜花店>とした理由は何か.
=高麗歌謡に対する関心も自然に生じたが,文献を見たら<雙花店>と言う歌を宮の中で王が直接詠んだりした.こんな淫蕩な家事の歌を王が歌ったなんて衝撃だったよ.そんな高麗の道徳的パラダイムを象徴的に見せてくれたくて題目もそれほど付けた.そして サングファ を漢字で見れば霜上(霜) 花火(花)なのに, 霜花という閃光のように来て行って刹那に消える有限なイメージではないか.それが青春の感じと似ているという気がした.そうしてみれば結婚,教育,暴力など媒介だけ変わっただけであって私はずっと青春に対する話をしたようだ.(쌍화は雙花とも霜花とも読めるようです・ヤスミン)
-同性愛は今時代のトレンドだったりあるが,そんな点を考慮したか.
=トレンドをついて行った部分もあるでしょう.前述したように切迫した愛の障害物を捜してみたら性アイデンティティと同性愛という地点が出たが,それは時代的コードという気がした.
-同性愛という素材や高い表現水位のためキャスティングが易しくはなかったはずだ.
=そうな方だった.どうせチョ・インソンは<卑劣な街>以後一本加えるということに同意した状態だった.<卑劣な街>時はとても心細い目とか‘ゾインソングスロウム’抜き出そうと思ったら今度は史劇だからもっと精製されて物静かに内的震えることを盛り出そうとした.ありがたいのがインソングイは難しい配役なのに惜しい音一言しなかった.映画撮る始終負担だったことも私がインソングイをあまり消費してしまうのではないかという気がしたからだ.チュ・ジンモは<武士>を一緒にしたキム・ソンス監督がお爺さん(褒め言葉のようなもの?)を与えた.いつか“ジンモがちょっとギェジブエスロウンところがある”と言ったが,それが覚えていたよ.それで会ってみたが線が太くて男性的でもあるがとても恥かしがって女性的な剃りあった.そのように男性性と女性性が共存する感じることのため確信を持ってキャスティングをした(烏滸がましいですがジンモシのその感じわかります~・ヤスミン).宋至孝は<マルチュク青春通り>時オーディションに参加したが,頭からツマ先まで直した所が一つもなかったというのが印象深かった(整形のことですね・ヤスミン).そんな感じが良くてキャスティングをした.
-同性愛場面を含んで皆8個のエゾングシンが出ていたよ.本当に大変だったようだ.
=シーンが多くて場所も至って体位も違って難しかったのは事実だ.どんなにせっぱつまれば‘ベッドシーンTACHIMAWA LEE’(‘立ち回り’のことかな?ヤスミン)と呼んだの.(笑い)
-チュ・ジンモとチョ・インソンの同性愛場面はこの位規模のサングアップヤングファチゴンかなり水準が高かったよ.
=以前に<ロードムービー> のような映画があったりしたが(<ブエノスアイレス>のことのような・ヤスミン),トップスター二名がそんな演技をするという点のためかみんな強い印象を受ける感じだった.その事実だけでもとても衝撃だろうと思って節制をしたことだ. 演技する立場で負担だったようだ.その場面は 4月に取る予定だったが,ジンモがひと月だけ延ばしてくれと言ってしていたよ.それで5月に撮った.
-それからはチョ・インソンと宋至孝の分ける濡れ場が7番(回)出るのに,毎度他の姿だ.
=情事シーンは皆感情の流れを反映する.初めには失敗して二番目は正常体位でシネリという目的に充実な情事を分ける.そうしたが良いからちょっと激烈になって,その次の書庫で持つ情事は空間の特性の上立ってするようになって,その次の王后の私邸(私家)にホングリムが尋ねる時は二人すべて情事を満喫するようになる.事実,ホングリムは20代初盤の年に自分の性アイデンティティが分かるようになった男なのでそんなに激しくチダルアがはのだ.
-そうしてみるとホングリムの王后に対する感情が愛ではなくただ肉欲であることもできるという気がした.
=ジョルジュ・バタイユの<エロティズム>の比喩を借りようとするとエロチシズムと言うのは類似死だ.精子と卵子が合されながら二つとも死を迎えて新しい生命をマンドルオネザンナ.人間と言う存在は永続性に対する欲望のためセックスをするようになるのに,そこには祭りがあって死がある.映画の結末をメロー映画のお決まりのナレーティブで見ることもできるが,バター遺跡(バタイユ的?)なエロチシズムに対する解釈を映画のナレーティブを引っぱりたい意向があった.性行為を過度に見せてくれたと指摘受けることもできるが, 私はそんな過程をもっと執拗に見せてくれたかった.実際性行為を盛った小島ナギサ(=大島渚=翻訳機ったら~・ヤスミン)の <感覚の帝国>以上に見せてくれたかったが韓国社会があんまり厳肅でそのようにできなかった.それは追後にでも….
-巨大な予算が入った映画らしくないようにアクション場面やスペクタクルが少ないという感じも与える.
=私は内密した三角関係を描きたかった.一男を間に置いたまま男と女がする三角関係言葉だ.その内密した心理を最後まで描いて見たかった.背景が宮廷なので規模が大きく見えるのとてもミニアルしたことだ.実は私はそういう心理が増幅されるのがもっとスペクタクルすると思う.真正な意味のスペクタクルは心の増幅ではないか.心の増幅はよく編まれたストーリーにあると思う.それが今のトレンドと当たらないかも知れないが,そんな固執はあった.<CINE 21> サイトに見るからキム・ヘリ記者が“どうせ話をするためには終りを見るという欲心が引き立つメロドラマ”と私の考えをそのまま書いたのに, 実際にそれが一番大きかった.私がセヘラザドになって話の最後まで行って見ようという蟹最大の欲望だった.(ワイヤーアクションはアン・リー監督のより好きでしたー・ヤスミン)
-初めて史劇を作って見た所感はどうなのか.
=実は私の趣向ではないと思う面があった.もとより現実を取材しながら出ることをいかし出すことに快感を感じる人なのに,昔の人々は会うことオブザンナ.しかし史劇が良い剃りある.私にどうせ史劇と言うのは過去の話ではなく未来の話だ.古い未来か.どうせ科か未来や接して見なかったから想像をメウォがはする.そのように想像力で映画を作って行く快感はあったよ.
-そうしてみれば <霜花店>はあなたとしてはリアリティーに対する探求から脱した初映画だ.
=ますますリアリティーで自由になることは事実であるようだ.それが良いことなのかは分からなくてもあまり現実につかまってその以上を扱うことができないことではないと思う.敍事を重視する監督なら話を作り上げたりしなければならないようでもある.
-次の映画もリアリティーで自由な映画になるか.
=一応次期作は現在の話をしたい.その次に思っておいた映画が大作史劇なのに,史劇を作って見たら過程がとても大変でまだよく分からない.九歳の息子が見られる映画も作りたい(あら~、お子様がいらっしゃるのですね・ヤスミン).アドルノムがそうしていたよ.“パパはどうして私の見られる映画は作らない?”<風吹く日なら鴨鴎亭洞へ行かなければならない>(これ観てみたい・ヤスミン)と<マルチュク青春通り>が15歳観覧可だったし残りは未成年者観覧禁止だったが,そんなに強い映画だけ作って見ると私自分も疲弊される感じだ.なぜ? 私と家族映画を作ることができないという法があるかと.
[CINE21 文:紋石/写真:五戒屋 2009.01.01]
http://www.cine21.com/Article/article_view.php?article_id=54489&mm=005001001
<マルチュク青春通り>大好きです~~きれいなシーン、青春は切ないです~
(BGMはこの日記のタイトルをクリックで消えます)
そしてもう100回くらい観たこの<卑劣な街>YouTube~観るたびに涙が出ます~ミスチルの<しるし>も買ってしまったりして~
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